Photographer

杏橋幹彦
MIKIHIKO KYOBASHI(海伏)

写真家 杏橋幹彦 ポートレート

Profile www.mikihiko.com

1969年 神奈川県茅ヶ崎生まれ。1983年、パラオとサイパンにホームステイとキャンプに訪れ、 1989年にはYMCAマリンスポーツ科の1期生となる。1992年、カメラを手にオーストラリアへ移住し、 バリ島から島々を巡る旅に出た。

1998年から1999年にかけては、戦場カメラマン・ユージン・スミスのアシスタントを1年間務め、 人と車を撮り続けた写真家・柏原誠のスタジオにも1年間通った。

2000年、パラオの友人アキヲさんの訃報を知る。糸が切れたような感覚だった。 電話をかけると、亡くなったことを奥さんから告げられた。命は儚く、一瞬で会えなくなる。 後悔してもしょうがないとわかっていても、後悔したかった。

パラオの墓前で、満面の笑顔だった海の人アキヲさんに語りかけた。逢いに来ないでごめんなさい、と。 そのとき、自分の写真には悲しみも憂いもなく、薄っぺらでダメだと感じた。

ユージン・スミスを憶い、戦場に消えた一ノ瀬泰造さん、沢田さんを憶い、本物の一枚は命のかかる場所—— 戦場にあり、そこへ行くべきだと思った。しかしそれは戦場の力を借りた他力かもしれない。 独り、自己完結で死ぬ可能性のある場所はどこか。それは海だった。おそらく崩れる波の中だと思った。 そこには何かが写るかもしれない。全てを捨てて、裸で行く。禅の本にもそう書かれていた。

カメラは何でもいい、36枚入りで、ピントが合えばいい。自然に不自然な酸素ボンベは使わず、 水中眼鏡と足ひれだけで、波の中へ一人旅すると決めた。それ以外の道具もストロボも使わない。

オーストラリア、フィジー、モルジブ、ハワイなどへ武者修行に出た。気道が閉まるほど溺れ、 雨のフィジーでは暗黒の大波に3度引き込まれた。どこからともなく怖さが胸に凝縮され、全てを飲み込んでいく。

やがて雑誌『Blue』の創刊から執筆の機会をいただき、スイス・ロンジン社の「水の世紀の冒険家」に選ばれ、 パタゴニアのサポートまで授かった。夢のようだった。今もパタゴニアのサポートを受けながら、 御神酒と祝詞を捧げ、日本の冬の海へ向かう。命がおじゃんになるまで終われない旅が続いている。

Works

一人旅で訪れたタヒチ、グランドケイマン、バリ島アマンホテルをはじめとする五つ星ホテルの取材、 トルコ大使館や「料理の鉄人」の中華料理撮影、ANA広告と機内誌『翼の王国』、ロンジン、コールマン、 Quick Silver、Roxyなどの撮影を担当。ZARDファイナルコンサートへの起用、 パプアニューギニア政府観光局、ザンビア大使館の仕事も手がけた。現在はチャコットのフォトシューティング専属として バレリーナを撮り続けており、オンワード芝浦のチャコット本社には6mの波の写真が飾られている。

Media

J-WAVE「ソコトコ」、BAY FM 78.0「ザ・フリントストーン」、FM Yokohamaに出演。 産経新聞、日経MJ、毎日子供新聞などに掲載され、BS朝日「中村雅俊 京都の旅」、 サントリークォータリー(宇宙飛行士・野口聡一氏との対談)、日本テレビ「すっきり」にも登場。 雑誌『BLUE』での執筆、ダイバー紹介記事、『ヨガ ロハス インターナショナル』『サントリークォータリー』、 J-WAVE、Fiji Waterなどに寄稿している。

Exhibition

1999年の青山スパイラルでの合同展を皮切りに、ミュンヘン、アムステルダム、イタリア、スウェーデン、 ニューヨークで作品を発表。「パタゴニア・オーシャン」展、堂島リバーフォーラムでは隈研吾氏・杉本博司氏らと共に出展し、 ロンハーマン、Art Fair TOKYOにも参加。代々木上原のファイヤーキングカフェでの展示は22年目を迎えた。

Dedication(ご奉納)

伊勢神宮 写真集、出雲大社 北島国造館、京都・興聖寺の襖絵「青波」、身延山 武井坊など。

Award / Collection

ラトビア共和国 文部科学大臣賞、同 外国人芸術博物館。銀座久兵衛、芝浦オンワード、稲取ホテル浜の湯、 トラスティーズFAS、梶村歯科医院(柏)、土持歯科医院(宮崎県都城)ほか、国内外の個人邸に作品が収蔵されている。

Certificate

オーストラリア・サーフライフセービング ブロンズメダル、アドバンスド救急員、メディックファーストエイド、 急流リバーレスキュー員、日赤 雪上安全員・救急法、PADI救急法員。

柏原誠 — 1999年の朝

いつものように朝、明大前のスタジオに行くと師である柏原誠が切り出した。「話がある」。 「俺な、今日で写真辞める。キョーバシくんが最後の弟子だ」。突然の言葉に戸惑うと、師は笑いながら続けた。

「これからデジタルになると、車もモデルも走らせたり加工してな。もう写真じゃないだろ。つまらないでしょ。 俺の腕の見せ所がなくなる」。そして、いつも言っていた言葉を繰り返した。

カメラは所詮機械よ。ここにあるハッセルもライカもばかちょんも、どれも同じよ。
カメラに撮られなさんなよ。ファインダーなんか見るな。考えるな。バーン!と押せ。モデルわし掴みだ。

「お前な、やっぱり海へいけ。あとな、人な、人。お前さんは何かが写る。バーンと行け」。 その数年後、波の旅から帰ると、師から一通の手紙が届いていた。開けると、初めて敬語で書かれていて驚いた。 それが、亡くなる前に受け取った最初で最後の手紙になった。

毎日が芸術家との禅問答のようだった。優しく大胆で、人にも仕事にもきめ細やかな優しさに溢れ、 エナジーに満ちた江戸前な男だった。手前味噌で恐縮だが、修正のない、感じたままに流れるように綴られた その言葉を、ここに残しておきたいと思う。カッコつけず、なりふりかまわず伝えること。 それが写真と同じく、すべてに通じるのだと、今になって感じている。

ふと私は思い出しました。ドキュメンタリーの、ロバート・キャパ写真の世界に似ているのです。 私は昔々、ユージン・スミスのアシスタントを1年間していました。君の写真は人々に幸せを与えてくれる 何かがあります・・・
柏原誠より 2006年9月3日

*ユージン・スミス:サイパンや沖縄の戦場カメラマンとして大怪我を負い一度は写真をやめたが、 人や子どもを撮り始めると再び光をあび、水俣病を撮った写真家。

憶い出を胸にしまわずに・・・・